イラストレーターヒヂリンゴ・聖の
日々つれづれイラスト&photo日記。
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曼珠沙華

お彼岸中はあの世とこの世の接点が広くなり、行き来がし易くなる時期だそうで。お彼岸中に亡くなる人の死は寿命の死で、ご先祖様たちに見守られながらあの世に行けるらしい。

ちょうど6年前の今頃、こんな書き出しで書いたブログ。母方の祖母が亡くなった時の記事です。
そして今年もそんなお彼岸に、また近しい方の死。がありました。
遠い親戚よりも近くの他人、とはよく言った言葉で、まさにそんな感じのおじさん。"前のうちのおじさん"。昨日の15時、病院で息をひきとりました。

我が家の茶の間の窓からは、おじさんのおうちの茶の間の窓がちょうど見えます。その窓の雨戸の開け閉めで、あ、おじさん起きたね〜なんてことが分かるような。お喋りがとっても好きなおじさんで、私の母とは特に気が合い、珈琲を飲んでいきなよ〜と良くお声がかかり、友達のようにお互いの家を行き来していました。
あ、おじさんおじさんと言っていますが、もう87歳のおじいちゃんです。ガハハハハ!とはずれがちな入れ歯をカポカポしながら良く大きな声で笑うおじいちゃんのおじさんでした。

 

おじさんには、大好きな大好きな奥さんが居ました。着物が良く似合う、色白の鼻のすっと高い品のあるおばさんで、端から見ると美女と野獣?wのようなご夫婦でした。笑
若い頃から色々な病気をして病みがちな奥さんで、おじさんよりも早くに亡くなってしまったのですが、"おうちで死にたい"という奥さんの希望を叶える為に、入院先の病院から無理をしてでも奥さんを連れ帰って来て、最期を看取ったおじさん。
母はおばさんから、「私が亡くなったらこのマニキュアを塗って頂戴ね」と綺麗な藤色のマニキュアを預かっており、塗ってあげました。

おばさん亡き後、おじさんがおばさんを想い詠み、描いた句と絵。
記念にくれました。おじさんのペンネームの"ふく"は
おばさんとおじさんの名前の頭文字をとったもの。


お子さんに恵まれなかったため、養子を迎えたものの、その息子さんをひき逃げされてしまった悲しい過去があり、、、人の心の痛みを良く知る、温かい温かいご夫婦でした。
人情深い故に、ちょっとした気遣いの無い人の言葉が気に触り許せなくなってしまうなど、人の好き嫌いも激しいおじさんで、好きな人にはとーーーっても良くしますが、嫌いな人にはあからさまに嫌い!の態度を出す為に、まぁ、人付き合いも色々とあったようですが(笑)うちの家族は皆おじさんに好かれ、本当に良くしてもらってきました。
籐の籠を編んだり、石が趣味だったり、美術ごとも色々と好きなおじさんだったので、「聖ちゃんの絵は本当にあたたかくていい!あなたの絵は素晴らしい!」などと、、言い過ぎです!と言いたくなるくらいよく満面の笑顔でベタ褒めしてもらったりしていて、おうちの玄関に、私の絵を飾ってくれていました。

 

何年前のことだったか、私がもうだいぶ良い年なのにもかかわらず、両親が旅行で数日間家をあけると聞くと、おばさんはスタミナドリンクを届けに、おじさんは夜中に懐中電灯を手に我が家の庭をウロウロ警備してくれていたりw (庭で何かが動くと自動撮影してくれるセコムの画面を確認すると、そのおじさんの姿がw むしろ恐怖でしたwww)、
母がめまいで救急車を呼ぶ事態になった時には、おじさんおばさんが飛んできて(玄関で転びw)、階段をかけあがって手伝ってくれたこともありました。救急車の中で、「意識があるから大丈夫よ。」「私なんて運ばれる時はいつも意識がないから。」とカッコいい台詞で勇気づけてくれたおばさんの頼もしさといったらありませんでした。

 

頭はずっとしっかりでしたが、身体の自由があまり利かなくなってからは、うちの母が買い物に連れていってあげたり、父が高低差のある玄関脇に手すりをつけたり、おじさんはおじさんで、歩きづらいのに我が家に果物をもってきてくれたりと、持ちつ持たれつ仲良くさせてもらっていました。

 

そんなおじさんが近くの病院に肺炎で入院してから数ヶ月。。

先月お見舞いに行った時には、痩せてだいぶ顔は変わってしまいましたが、私たちのことは良く理解してくれており、聖です!と言って手を握ると力強く握り返してくれました。何かを話そうとしてくれていたのですが、入れ歯ははずされてしまっていて理解できず…。また来るね、と言った私たちにずっと手を振っていました。

 

おばさんが居なくなってからは良く縁側に座って庭を眺めていたおじさん。そんなおじさんのお庭には今、おじさんが大好きだったという彼岸花がたくさん咲いています。
たまたま、今している仕事の関係で、一昨日こちらの詩を知りました。

 

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【曼珠沙華(ヒガンバナ)】 金子みすゞ

村のまつりは
夏のころ、
ひるまも花火を
たきました。

秋のまつりは
となり村、
日傘のつづく
裏みちに、
地面(ヂベタ)のしたに
棲むひとが、
線香花火を
たきました。

 

あかい
あかい
曼珠沙華。

 

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有名な金子みすゞさんですが、こちらの詩は初見。彼岸花を地面の下に棲む人がたく線香花火にみるとは、、、なんとステキな想像力でしょう。たまたま1本倒れてしまっていた彼岸花。まさに線香花火。
ちょっと怖いイメージがあったので、あまり彼岸花は好きではありませんでしたが、この詩は久々の衝撃で、、一気に彼岸花が大好きになりました。

我が家にも、おじさんがくれた彼岸花が数本咲いています。

これからは毎年彼岸花をみたら、この詩と、地面のしたに棲む色々な人を想い出すだろうなと思います。

JUGEMテーマ:日記・一般
 
終戦の日 -続・祖父のコト-
リクエストを頂きましたので、前回の日記につづき、
祖父の軍歴資料を全部記載します。
非常に長いので、ご興味ある方のみご一読くだされば幸いです。


皆さんは戦争について、どれくらい知っていますか?
恥ずかしながら私の知識は本当に薄いです。

でも年をとって、改めて祖父のことを想ってみて、
自分が進んで知る・選ぶ事が出来る情報が多くなった今、
せめて自分の国が関わった戦争がいかにして起きたのか、
どういった意味を持つものだったのか、
もっと知らなければならないと思いました。

20代を、日本の為、家族の為、戦いの中で生きた祖父。
敗戦後、信じていた教育や思想が180度違ったものとされ、
大きな屈辱も味わったことでしょう。
戦争を美化したい訳ではありません。
でも、日本人としての誇りを持って、
あの時代を生きた人々皆に、今、畏敬の念を抱きます。

二度と不条理な戦争の悲劇を生まない、
平和な世の中でありますように。


軍歴
1937年(昭和12年)1月10日 20歳
現役志願兵として近衛輜重兵聯隊(このえしちょうへいれんたい)に入隊し、輜重兵二等兵として教育訓練を受ける。
同年7月10日
輜重兵一等兵に進級し、下士官候補者班に編入され特別教育訓練を受ける。当時、富士滝ヶ原厩舎において厩営演習中、支那事変勃発の報に接し急遽厩営演習を取止め、東京目黒の兵営に帰還し支那事変勤務に従事した。
同年11月1日
陸軍輜重兵学校下士官養成科(在世田谷区)に入校し教育を受ける。
同年12月1日
輜重兵上等兵に進級し、伍長勤務を命ぜられる。

1938年(昭和13年)4月30日 21歳
陸軍輜重兵学校下士官養成科を卒業し、聯隊に帰隊した。
同年6月1日
輜重兵伍長に任官し、同日附で聯隊本部附書記を命ぜられる。
同年12月1日
輜重兵軍曹に任官する。

1939年(昭和14年)6月 22歳
北支那派遣軍の交代兵員85名を宰領し、東京発、大阪港で乗船し、唐沽に上陸、天津、済南、徐州を経て海州で兵員の引渡しを終り任務終了し、帰路は天津、山海関、奉天を経由し南満州鉄道特急「アジア」で釜山に、次で海路門司に着き東京の聯隊に帰着した。
同年12月1日
輜重兵曹長に任官し、同日附で営外居住を許可された。業務は聯隊本部書記として、庶務事項一般、日々命令、教育関係事務等を行った。

1940年(昭和15年)6月3日 23歳
近衛師団に出勤命令が下令され、6月27日東京港で乗船出発し、陽動作戦のため揚子江を遡航し7月7日中支漢口に上陸して待機したが、作戦変更により7月10日再び同地で乗船し進路を南にとり、南支蚊虫山に上陸して南寧に前進、同地に駐留し聯隊は兵力および軍需物資の輸送業務に従事した。
同年9月15日
勅令第580号により階級の名称が変更され、輜重兵曹長が輜重兵陸軍曹長となった。
同年11月
南寧撤退作戦が実施され、聯隊は南支中山県壕頭に転進移動し、近衛師団はここで機械化師団に改編されて馬匹は全部内地に送還し、それと引替えに自動車が補充された。師団は6ヶ月の日時を限って兵員に自動車の操縦、積載、卸下その他必要の訓練を実施した。

1941年(昭和16年)7月 24歳
第3次近衛内閣が退陣し東条内閣が組閣されて、政府は南方進出の政策をとった。この政策の一環として近衛師団は南部仏印進駐作戦に参加することになり、海南島の三亜港に集結して外交交渉の成り行きを見守りながら戦闘準備の完璧を期した。遂に平和進駐の交渉が成立し、軍司令官から「外交交渉に成立し、刀に血塗らずして南部仏印に平和進駐することを得たるは、誠に欣快事にして皇恩正に無窮たるべし…」という訓示が示達され、輸送船は海軍艦艇護衛のもとに二列縦隊で船路堂々と前進。
同年8月
仏印「サイゴン」に上陸、同地に駐留して師団輜重としての任務を遂行する他、飛行場整備業務にも大いに精励した。また、この頃天皇、皇后両陛下が侍従武官をご差遣になり、師団長以下将兵に対し山縣有光侍従武官より聖旨と皇后のお言葉が伝達され、将兵の感激は誠に大きなものであった。
同年12月
米・英国に対する宣戦布告を予期し、近衛師団は第22軍司令官の隷下で12月5日の夜より作戦行動を開始して仏印と恭国の国境を突破、前進に前進を続け首都バンコクに到着し、ここで次の行動の準備を行った。
その後約1週間の後、近衛師団は第22軍司令官の隷下を脱して第25軍指令官山下奉文中将の隷下に入り、マレー半島政略作戦に参加した。バンコクから恭国とマレーの国境ハジャイまで汽車輸送、ここで戦列に入り西海岸道を近衛師団、中央道を広島の第5師団、東海岸道を久留米の第18師団の宅見歩兵団長指揮の宅見支隊が受持ち、進撃に進撃を続け遂にジョホールバールに到着した。
この間敵航空機の来襲も多く、また、ムアル河を夜陰に乗じて工兵隊の鉄舟で渡河する際は、敵空軍が照明弾を次々に投下し真昼のような明るさの中で桟銃掃射を繰り返し、ムアル河口からは英国軍艦の艦砲射撃が熾烈を極め実に困難なものであった。しかし、鉄舟に乗るまで草むらや小木の陰で待機しているとき、河辺の柳の枝にマレー特有の大型の蛍が無数にとまって明減している様は本当に見事なものであり、これをこのまま東京の銀座に移したら見る人がさぞ感嘆するだろうなどと話し合った。また、チーズの缶詰を石鹸と思って捨てた兵がいたのもこの作戦行動中のことである。

遂に世界の耳目を集めたシンガポール島の総攻撃が開始されることになった。ジョホールバールで第25軍は約1週間戦闘準備を整え、後続していた牟田口中将指揮の第18師団、軍隷下各部隊のトラックを総動員した。さらに近衛輜重兵聯隊長が輸送指揮官となり急遽兵力輸送して第1線に加え、左翼第1線5師団、中央第1線近衛師団、右翼第1線第18師団と戦闘配置が決まり、横須賀重砲を基幹とする48ヶ中隊の砲列を敷いて援護射撃準備を整えた。
山下第25軍司令官は隷下全将兵に対して、「シンガポール島の総攻撃を開始するにあたり、忠勇なる吾が将兵に訓示す。夫れ百年兵を練るは今日があるが為なり…」と訓示して総攻撃開始を命令し、自らはジョホールバール王官の望樓上において総指揮をとられた。

戦闘が開始されるや我が軍飛行機の爆撃により島の重油タンクは次々に火炎につつまれ、その黒煙は満天を覆って実に不気味な様相を呈した。軍は陽動作戦のためセレタ軍港に近いウビン島(運河の中)に近衛捜索聯隊を上陸させて敵主力を引き付け、夜陰に乗じてジョホールバールとシンガポール島を隔てる運河の敵前渡河を行ったが、敵が運河に大量の重油を流して火をつけたため火の海となり、それに重桟・軽桟・即射砲の掃射砲撃を浴びせられたので、独立工兵隊が操縦する鉄舟の中で敵弾に倒れる者、大火傷を負う者が続出してその修羅場は酸鼻を極め、我が軍の困難は筆舌につくせなかったのである。近衛歩兵第4聯隊の軍旗が一昼夜行方不明になったのもこのときであった。シンガポール島に上陸して前進し、ブキテマ高地を確保し、更に前進進撃したが密林のため車輛が利用できないので、近衛輜重兵聯隊も各中隊長を先頭に弾薬箱を荷って歩兵第1線に肘力運搬補給をした。我が将兵の奮迅力戦により敵も遂に力尽き、英軍司令官パーシバル中将が降伏し難攻不落といわれたシンガポール島の要塞も陥落した。苦労と困難を極めた末の陥落であったので、敵降伏の報に接した際の勝利の萬歳の歓声はシンガポール島の山野に響きわたったのである。

1942年(昭和17年) 25歳
その後1ヶ月戦場掃除と次期作戦の準備をし、3月北部スマトラに近衛師団が敵前上陸を敢行し、以後メダン市に駐留し師団輜重の任務を遂行した。1940年(昭和15年)6月出勤以来聯隊本部附として、作戦命令、日々命令、陣中日誌、戦闘詳報他、聯隊長側近の業務に精励した。
1942年度少尉候補者選抜試験が陸軍教育総監部によって全国一斉に実施されることになり、聯隊長が受験候補者として選抜して師団長に申達され、同年6月中旬に術科試験2科目(第1日目:小隊長としての戦闘指揮、第2日目:小隊長としての陣中勤務)を、7月上旬に学科試験10課目(第1日目、第2日目共:午前2課目/午後2課目、第3日目:午前2課目、各課目90分間)を受験した結果合格。
同年12月1日
少尉候補者第24期学生として陸軍士官学校に入校し、将校としての○学・術科の教育を受けると共に教養を身につける。

1943年(昭和18年)11月 26歳
同校を卒業。
同年12月1日
陸軍少尉に任官し近衛輜重兵聯隊附に補せられ、マニラ、シンガポールを●●して在地部スマトラの聯隊に赴任し、マニラでの魚雷遷難、聯隊本部の警備・情報主任将校として勤務し、また幹部●●●の試験監督将校を努め、主に第25軍司令官の命により東海岸州内駐留●●●将校下士官兵の簡関点呼(学科、●●、身体検査)が1週間の日時をもって実施された時、執行官の聯隊長について補助官を務めた。

1944年(昭和19年)12月1日 27歳
陸軍中尉に任官し、近衛輜重兵聯隊副官に補せられ、聯隊長の秘書、庶務全般、●●行動企画、人事全般の業務を務める。

1946年(昭和21年)6月29日 28歳
ベルリン?
同年10月10日
ベアリン?
同年11月4日
捕●

1948年(昭和22年)1月6日 30歳
●●

黒丸●部分は筆が乱れていて良く読む事が出来ませんでした。
おそらく、1948年30歳でベアリン?から帰ってきた模様です。
 
戦争と祖父のこと
唐突ですが、これはうちの祖父です。


私が中学2年の時に大動脈瘤の手術で亡くなりました。
とても厳しく、常にビシッッッ!とした人で
入院前には身の周りのものを綺麗に整理し、
「じゃ、行ってくるよ」と出かけて行きました。

成功率が低い手術だなんて思ってもいなかった私は
あ、行ってらっしゃーい。くらいの気持ちで送り出し
祖父は帰らぬ人となりました。

そんな祖父は生きている際、
戦争時代の話は一切することはありませんでしたが、
去年の夏、「歸國」というドラマを見たのをきっかけに
急に祖父の戦争時代の足跡が気になった私は
母がひっぱりだしてきた、祖父が書いたという軍歴資料と、
陸軍士官学校という本を読むことになりました。
非常に長い文章だったので、全ては記載出来ませんが、

祖父は1937年19歳の時に志願兵として
近衛輜重兵聯隊(このえしちょうへいれんたい)に入隊し、
(輜重兵とは部隊の移動に際しての糧食、被服、
武器、弾薬などの軍需品を輸送する任務を専属とする兵)
教育訓練を受け、支那事変へ。
輜重兵陸軍曹長として1941年からマレー作戦に参加。

軍歴資料の中のマレーでの出来事について、
祖父はこう語っていました。

近衛師団は第22軍司令官の隷下を脱して第25軍指令官山下奉文中将の隷下に入り、マレー半島政略作戦に参加した。バンコクから恭国とマレーの国境ハジャイまで汽車輸送、ここで戦列に入り西海岸道を近衛師団、中央道を広島の第5師団、東海岸道を久留米の第18師団の宅見歩兵団長指揮の宅見支隊が受持ち、進撃に進撃を続け遂にジョホールバールに到着した。この間敵航空機の来襲も多く、また、ムアル河を夜陰に乗じて工兵隊の鉄舟で渡河する際は、敵空軍が照明弾を次々に投下し真昼のような明るさの中で桟銃掃射を繰り返し、ムアル河口からは英国軍艦の艦砲射撃が熾烈を極め実に困難なものであった。

本当に祖父が?こんな体験を??
高校の修学旅行でひめゆり部隊の方の話を聞いた時と同じ、
いや、それよりも不思議な気持ちでした。
戦争は良くない!二度と繰り返してはいけない!!
と思いはするも、やはりどこか遠い歴史の中の出来事の様な
そんな気持ちすらしてしまう、戦争。兵隊。
それを身近な祖父がこの様に経験している事実。
その文章はこう続きます。

しかし、鉄舟に乗るまで草むらや小木の陰で待機しているとき、河辺の柳の枝にマレー特有の大型の蛍が無数にとまって明減している様は本当に見事なものであり、これをこのまま東京の銀座に移したら見る人がさぞ感嘆するだろうなどと話し合った。また、チーズの缶詰を石鹸と思って捨てた兵がいたのもこの作戦行動中のことである。

情景が目に浮かぶようで、どこかクスッとしてしまいますが
そうなんですよね、みな、普通の若者達なんですよね。
今の世の中にしてみたら、高校生や大学生に刀や銃を持たせ、
命をかけて戦ってこい!!!と、、そういうことですもんね。

祖父はその後、シンガポール島の戦いを経て
24歳で陸軍士官学校に入校・卒業し、
陸軍中尉になり、庶務、人事全般に関わったとのこと。

どうやら凄い早さで昇進している様が読んでとれたので
おじーちゃん、賄賂かなんか?と突っ込みたくなりましたが
いえいえ、おそらく、祖父のことなので、日本のために
懸命にマジメに頑に任務に従事してきた結果なのでしょう。

終戦後、祖父はどのような気持ちで
日々を生きてきたのでしょうか。
戦争に対して、どのような想いを持っていたのでしょうか。
「歸國」ではないですが、今の日本はどううつりますか。
この年になってようやく、祖父とじっくりと
話がしてみたいなぁと感じています。


生きていたら94歳。
怖かったけど、笑うと真っ赤なほっぺがぷくっとなる
かわいいおじいちゃんでした。


ところで、陸軍士官学校の本に
訓練の様子が載っていたのですが、どういうこと…
余裕で4mくらいある高みからどんどか飛び降りています。
降りた後、しゅたたたたと走ってはしごを上って
また飛び降りてるっぽいす。。

こちらはもはや状況が分かりません。

とにかく尋常じゃない訓練だったことは伺いしれますが、
日本男児みんなこんなに運動能力スゴイの?

戦争はもちろん反対ですが、この厳しい時代を
くぐり抜けてきた人の忍耐力は半端ないですよね。
世のお爺ちゃんお婆ちゃんに敬意を表します。
 
自然に笑えること。
最近仕事以外で絵を描いていなかった…
と言うことに気づき、らくがき掲載ー。
「自然に笑えること、日々の小さな幸せを」



落ち着かない日々が続いていますが、
“計画停電が不公平だ”と言う苦情を寄せている方が
多いとか言うニュースを聞きました。

もうさ、やめましょーや。
いやまぁ、日に2度も停電になり工場が動かせず
そりゃー死活問題…って社長とかが言うのは分かりますが…
何やらどうやら、ただ単に気が滅入るとか
そういう様な理由で、迂闊に苦情を入れている
首都圏の方々。。まぁ、23区は停電ではないですが。
ACの宣伝に、しつこい!今から包丁持って押し掛ける
と入った苦情もあったとのこと…世も末だね。
苦情って、なんだ?

そんなことで不公平を口にしていたら
福島県の方々はどうする!というお話。
Yummy♪TITADECOさんのブログに
↓こんな記事がありました。

福島県は東北電力なのに、東京電力の原発が
福島県にあるという不公平。
そして福島県の方々が放射性物質の危険にさらされ
屋内退避、物資不足…という不公平…。

毎日膨大な電力を福島県に支えてもらっていた
首都圏民。ちょっとの停電でガタガタイウナー。

線路沿いのお宅も停電はないらしいことを聞きました。
我が町は駅もない神奈川の田舎なもので、
今現在4回程停電になりましたが、
静かで本当に暗い夜を感じるひと時も悪くはなかったです。
(こう感じられるのも安らぎのある生活あっての話ですが…。)
今は不公平とか、そういうことを言っている段階では
ないでしょー。と思うのであります。

夜でも煌煌とついていた駅やお店の明かりが
ほのかに薄暗くなったこの頃、
そこになんだか不安よりも落ち着きを
感じはじめている方も少なくないのではないかなー。
夜が夜としてやってくる、そんな感じね。
元々必要以上に使いすぎていたんだよ。ホントに。

日本はここからまた、少し昔の暮らしに戻って
見失いかけていた大切なモノを取り戻しましょう。
なんつーのは少々うさんくさいですが、
これから確実に落ち込む日本の景気。。
「三丁目の夕日」精神で乗り越えたいもんです。

三丁目の夕日:画像拝借

本当にはまりすぎて、BOOKOFFで何十冊も
大人買いをしてしまった漫画「三丁目の夕日」
オススメです。
 
再建おじーちゃん。
3日振りに救助されたおじーちゃんおばーちゃんの映像。
カッコ良すぎです。。そして感動しました。
ちょっとしたことでヒーヒーと弱音を吐いてしまう自分、
こんな強さ、見習いたいです。

なんとなく、うちのおじーちゃんが生きてても
こんなコト言ったかもなーと思ったり。思ったり。
もっと言い方は怖くてビシッとした感じだと思うけど。笑


お年寄りは「弱者」じゃないと思うのです。
いや、身体的にみればそりゃぁ若者にはかなわないだろうけれど
戦争を経験した世代の方はやっぱり
現代人と辛抱強さも違うなと思います。
(念のため、戦争が良かったということではないですよー?
あの、物が無い、今よりよっぽど不便な時代を
生きてきた方って事ですー)

亀の甲より年の功。
年を重ねた、人生の前を歩いているお年寄りはやっぱり偉大!
ニュースでみるお年寄りをいじめるヤツ、バカにする若者は
絶対ゆるさん!!!

なんか、趣旨がずれましたが、
悲しい話が多い中、救いのような温かで深い
おじいちゃんの言葉でした。
 
計画停電やら節電やら
元来テレビ好きですが、震災になってから、
テレビよりもネットで情報を集めている気がします。

お笑いなどエンターテイメントを観るには
なんら不満は感じないですが、このような被災時になって、
テレビでは、知りたいことが知れない。
と、とても感じる様になりました。
どの番組でも同じような映像、内容の繰り返し。
自分の感情を制作者の意図で振り回されているような。
今知りたいところはそこじゃない!と思うのです。

ネットの世界には出所不明の真偽さだかでない情報が
確かに反乱していますが、皆の生の声が落ちているし、
きちんと調べて理解、整理すれば、
それが正しいかどうかは判断出来るはず。
そして、自分が知りたいことを知る事が出来る。

で、連日気になっている発電所、電気の話。

私が気になった計画停電。
開始当初、実行するならする!しないならしないで!
と声をあげた人も多かったと思いますが、
なぜやると言って、やらなかったりするのか
疑問に思った方も当然多かったのではないでしょうか。

発電された電気は、蓄えられない。からなんです。って。
(知識ゼロの私は今回初めて知った。と言うか、
そんなこと、考えた事もなかった…。。)
つまり、今使っている電気は、今作られた電気。
乾電池があるじゃない。と思う方も居ると思いますが
根本が少し違うのと、発電所並みの膨大な電力を
ためておく施設は今現在存在しないということ。
余剰電力を使った揚力発電という仕組みもあるけれど、
基本的には蓄電は不可能。

要するに発電所は、今日に明日に使われようとしている、
電気を予測し、予測より使われる電気が上回らない様に計画し、
必要とあらば、停電している。
もちろん、必要でないならば、停電させない。ということ。

で、a_alpha_mさんのtwitterより。
関東の人に知ってほしいこと。
・計画停電は関東内部での電気の譲り合い。
 東北の被災地への直接支援では無い。
・電気はほぼ貯められない。
・節電が特に必要なのは消費量があがる昼間の一部の時間。
・発電量が不足しそうになったら計画した地区から停電する。
・深夜の電気は余っていて節電はほぼ無意味。

関東の計画停電は、関東人の自分自身の為にやってるんで、
東北の被災者を支援するための、というのは誤解。
と言っても、むやみやたらに電気を使ってしまって
大規模停電なんぞ起こしてしまった時には
それこそ支援に支障も出るので節電するのは大切ですが。

揚水発電は無限にできるわけじゃないから、
もともとだいぶ余ってる深夜電力を、経済活動を止めてまで
さらに無理に節電するほどの必要はないかと。
深夜に活動を止めて、その分の消費が昼間に回る方が問題。

停電しないで怒っている人の一部は、
「電気は貯められる」「東北に送っている」と思っていて、
「実行できないのは東電が停電操作に失敗している」からで、
結果「貯められなかった」「東北が犠牲になった」って
思っているみたいで、そうじゃないよ〜ってのが趣旨です。

私なりに調べた結果、この方の意見はとても的を射ている。と。
知る知らないじゃ偉い違いですよねー。
自分がしていることはどういう意味があるのか…ってこと、
感情論だけではなく、時に非情のようでも、
冷静にきちんと理解しながら目先よりその先を考えて、
自分の、皆の、国の、世界の?為になる対応をしていく、
考えていくのって大事だなぁと
つくづく思ったり思ったり。思ったり。

よって、政令告示を要望したという
1. 10時以降ネオンを消灯
2. 自動販売機消灯
3. コンビニエンスストアは午後10時以降閉店

が本当に意味があることなのかさっぱりわかりません。
ネオン消灯ならば、6時〜10時位までの方が意味あるよね?
…まぁ、それじゃぁお店も困るのか…。
特に3番は反対なのですが…。。。
真夜中に働く人が居ない世の中なら別ですが、
今の世に、特に東京でそんなことしたら…。
色んな影響が出そうな気がします。はい。
 
Fukushima 50

こんなにも当たり前に使っていた「電気」について
気にして、考えた1週間もなかった様に思う。
計画停電の夜、真っ暗闇の町の上で光る
月の明かりがとてもキレイだと感じた。
でもこれは今、安全で不自由のない暮らしにいる
自分の環境だから感じられることなんだろうと、
つくづく思った。夜空なんか見上げる間もないくらい
必死で戦っている人たちがいる。

Fukushima 50

欧米、各国メディアは今、福島第一原発内にて決死の覚悟で
電源復旧作業に当たっている作業員の方たちのことを
こう名付け、賞賛しているとのこと。
電気もつかない暗闇の中、酸素ボンベを背負い、
防護服に身を包み、懐中電灯頼りに作業にあたる彼ら。
『放射線と炎に勇気を持って立ち向かう、
わずかな数の技術者が福島第一原発に残っている。
おそらく彼らは、核の惨劇を防ぐ最後との砦だ…』と。

ハイパーレスキュー隊が原子炉への放水を行った昨日、
Fukushima50は2号路の近くで、
高濃度の放射線に晒されながら、電源復旧工事をしていた。
Fukushima50は、現場で命を懸けて働いている
平均50歳以上の原発プラントのプロフェッショナルたち。

何故、50歳以上か。
それは、無事に生還したのち、もし放射能による健康障害が
現れたとき、その人自身の「余命」を考慮したから。と。
「俺たちは、そこそこ人生をやってきた。この先いくばくか」
若い人はこれからの将来があるから、と決意志願した者も。
定年退職間近のベテラン原発従業員も現地に入ったそう…。
                 <各社記事より引用>

11日に起こった地震により、意識さえしていなかった
「原子力発電」そのものを急に非難する人も多いと思う。
狭い日本に50をも超える原子力発電所があることを
初めて知り、恐怖を覚える人も多いと思う。
東京電力を責める人たちもいると思う。

それでも、その電気を惜しみなく使って生活してきた私達。
どこから電気が供給されているのか、
どのようにして電気が作られているのかも
深く考えたこともなかった人が大半のはず。
これほど多くの原子力発電所が存在する日本になったのは
発電に無関心だった私たちの責任でもあるのでは。
半ばリーダーの判断ミスによる人災もあると言われているが、
この震災によって引き起こった原発事故を
責められる人はほとんどいないはずだと思う。

計画停電の夜「ご迷惑をおかけして申し訳ございません…」と
町を回る東京電力のスピーカー車を見た。
私たちは迷惑をかけられているのだろうか???
東京電力も同じ、被災者なのでは?と思った。

こちらこそ、今まで毎日電気を作って頂いて
本当にありがとうございます。と言いたい。


19日朝現在、作業員のうち
5人が死亡、22人が被曝、2人が現場にて行方不明。
 
東日本大震災

11日の地震、本当にコワかったです。。
私はあの時、新宿に居ましたが、
あんな揺れは生まれて初めて。異様でした。
昨日も震度5弱の揺れ。富士山お願いなので目覚めないで。

特に津波で被災された地域の方々、また関係ご家族の方は
こんな風にのうのうとblogを書き連ねている私には
到底計り知れない辛い気持ち、厳しい状況だと思います。
私の友人も今避難所で避難生活を送っていると聞きました。
どう言葉にして良いかは分かりませんが、
日本全体、世界全体が、本当に1つになって
助けの手を必死で伸ばしています!負けないで!!!

そして、東京、神奈川の私たちに今出来ることは
経済を止めない事!!!
東京の経済が止まれば、助ける人も助けられなくなる。
とホリエモンが声を高らかに言っています。
ホリエモンのtwitterにツイートされている
共感出来る文章を羅列。

「一番やばいのは東京から人がいなくなって
経済が回らなくなる事。自粛ムードで経済を停滞させること。
ほんとはどんどん経済まわさないといけない。
なのに節約自粛だと本当に日本経済がクラッシュする。
放射能よりも怖いのはそっちだ。」

「東京の人間は電気が止まっている位で被災者ぶるな。
無駄な電気は節約しても、経済はガンガン動かせ。
さもなくば次は国全体が沈む。」

「知恵がある奴は知恵を出そう。力がある奴は力を出そう。
金がある奴は金をだそう。『自分には何も出せないよ…』
って言う奴は元気出せ。」

1日中テレビで被害の現状を目にしながら
可哀想だ、大変だ、原発、放射能が怖いと
ただただ何も出来ず心を揺さぶっているだけの人は
それこそ無駄な電力だからテレビを消せ。って事。

原発の件にしたって、
日常生活の中で、自分たちが自然界からの放射線を
絶えず微量だがあびてることさえも知らないで
わたわた言ってはいかんのだなぁと再認識。
まずはきちんとした情報を自分で探して選んで、
今被災地に居て、避難所で頑張っている方たちの
妨げにならぬ行動をしたいものです。
なんだか訳の分からない買いだめも、
また数時間の停電ごときでわたわたもせぬよう。
(病院など、本気で電気が消えては困る場所への対処は
どうにかならないものか…ね。)
東電への苦情電話なんてもってもほか。
みんな最善を尽くして頑張っているんだよ!きっと!
と思います。

原発での作業の方々も、夜を徹して、
自らの命を危険にさらしながら最悪の事態を回避するために
必死の思いで働き続けているとのこと。

まだまだ余震に次なる大きな地震への恐怖に…
心配なことは多いですが、
地球に住まわせてもらっていることに対する
自然への感謝を忘れてはならないなと言う事、
どれだけ便利な生活に慣れてしまっていたのかと言う事
衣食住が不自由なくある暮らしも、水や電気のありがたみも、
今は実感せずにはいられないです。

とにかく頑張れ日本!頑張ろう地球人!
 
やはり人生、一期一会なのですな。


お彼岸中はあの世とこの世の接点が広くなり、
行き来がし易くなる時期だそうで。
お彼岸中に亡くなる人の死は寿命の死で
ご先祖様たちに見守られながらあの世に行けるらしい。

そんなお彼岸の最終日26日の23時に
母方の祖母が82歳で亡くなりました。

自らの子育てを終え、孫も生まれ60代となった時
それまで育て上げてきた息子(母の弟)を36歳という若さで、
そのお嫁さんも数年後に相次いで病で失い
残された彼らの幼子3人を祖母でありながら、母として
育て上げてきた、立派な人でした。

最期まで頭もしっかりしていて
「死にたくない」と言って泣いていたお婆ちゃん、
まだまだやり残した事、未練もたくさんあっただろうし、
本当に体が痛そうで辛そうだったけど、
最期のひと呼吸を終えるその瞬間まで、孫たちに手を握り
足をさすられながら見守られ続けた彼女は
幸せな最期であったと、思いたいと思います。
「人が息を引き取る」と言うまさにその瞬間、人の死
というモノを生まれて初めてしっかり見つめてきました。

弟夫婦不在による2家族分の
重要な役を長年担ってきた私の母、そして父の苦労も
計り知れないものだと思うし、
幼い頃に両親を相次いでなくした私のいとこ達は
おそらく命の重さや、死というもの、
一分一秒でも大切な人と過ごせる時間の尊さを
私の想像なんかをはるかに超えて
現実として知っているのだと思います。

だから今回のお婆ちゃんの死でも、彼らは
自分たちが出来る限りのことを精一杯尽くす。
そんな使命のようなものを抱えて行動しているかのように
毎日毎晩24時間態勢で病院に寝泊まり看護を続け
祖母の側に誰も居ない事などないという程
最期の最期まで、お婆ちゃんと一緒に居ました。
病院の方達にも、こんな家族見た事ないと言われる位
その姿には学ぶものがありました。

果たして私は、自分の大切な人が亡くなる時
ここまでし尽くすことは出来るのだろうか。
彼らを見て、そんな事も考えたりしました。

約3年前に亡くなった父方の祖母の時と同じく
やはり、死で感じたのは「一期一会」
今会っているこの人との時は、もう二度と巡ってはこない
大切な一瞬一瞬。出来る限りのことを。
人生それに尽きるかな。と。

なかなかね、難しいことではあるけどね。

※写真は私の祖母、母、叔父。
 
コトダマテキナ


・思いやりは忍耐から
・微笑みを忘れるな

数年前に読んだ本からメモっていた言葉。
メモって引き出しにしまっておいたのだけれど
しまっておいたんじゃ意味がないと思い
清書をして目の見える所に貼りました。

確かどこかの社長さんだかが書いた本でした。
良い本だったなぁ。誰の本だったろうか。

最近色々と思い直したり反省することが多かったです。
昔自ら作った詩も、今の自分への格言になったりします。
自分で自分に気付かされまふ。ほほほほー。



格言といえば、

見方を変えると、行動が変わる
行動が変わると、人格が変わる
人格が変わると、人生が変わる

心が変わると…とか、習慣が変わると…とか
ちょいちょい違えど世の中的には有名な言葉であるようで
でも改めていい言葉ですの。
毎日噛み締めたい言葉であります。